中世日本のお墓の歴史は、645年に始まった大化の改新の一環として翌646年に薄葬令が出されて、お墓のありかたなどについて細かく国の法律で決められたことにより、天皇といえど大型古墳を作ることができなくなったことに始まります。

この薄葬令は、天皇の墓を作るのにかける時間を7日以内に制限し殉死(家来が亡くなった主君の後を追って亡くなる(あるいは殺される)こと)を禁止したり、身分によって作ってよい墓の規模に制限をかけたりするものでした。

この頃上流階級に火葬が導入されたこともまた、薄葬を推進しています。
例えば703年に亡くなった女帝の持統天皇は日本で最初に火葬に付された天皇であり、彼女は自分の独立した陵墓を持たず先に亡くなった夫天武天皇の墓に合葬されました。
なお、その際彼女の遺骨は現在と同じように骨蔵器に納めて埋葬されています。

庶民階級では、土葬が中心でした。
その中でもより貧しい層の人々の遺体は街や人里の外れに捨てられ、腐ったり動物に食べられたりするに任せていました。
また、京都の鴨川は中世にはそうした貧しい庶民の遺体を水葬(遺体を海や川に流すこと)した場所だったということも覚えておきたいものです。

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